おはよう世界

「おはようございます」
 今日も良い朝ですね、昨晩はよく眠れましたか、僕は一睡もできませんでした。
わざとらしくぼやく男の口元は弧を描いている。いつものことだ。その男はいつだって、窓に近い場所でお行儀よく膝を抱えて座り、僕の目覚めを待っている。
だから僕も言ってやるのだ。
「おはよう」
 本当に良い朝だね、僕はこれ以上ないほどぐっすり眠れたよ。

 


 目の前の男は特に何をするでもなく、ゆっくり身支度する僕をただじっと眺めている。
 おそらく一度も染めたことがないであろう黒髪に、薄いブルーのシャツと、やはり青系統のチェック柄ボトム。男がきちっと締めているネクタイには、僕がこの世で一番嫌悪感を抱く文字の羅列。アイドルの衣装なんだか私立男子校の制服なんだか、よくわからない格好である。
 僕は彼に対して何の感情も持ち合わせちゃいないけれど、彼だって僕に好意を持ってなどいない。きっとこの瞬間でさえも僕の首を狙っている。それでも男は毎日僕が起きだすまで三角坐りを崩さないし、僕は僕で窓の鍵をしめずに眠るのだから、まったくおかしな話だ。
 大石内蔵助。それが男の名前だった。

「君、本当にアイドルなの? 完徹アイドルなんて聞いたことがないよ」
「大丈夫です、駆け出し時代なんて徹夜が当たり前でしたから」
 これ以上ないほどキラキラした笑顔を振り撒く男に、うっすらとした殺意さえ抱く。ファンの大半はこの「屈託ない」笑顔にうっかりやられてしまったのだろうが、屈託がないだなんて冗談じゃない。いつだって電卓が叩き出した正答の上でしかこの男は動きゃしない。僕も似たようなものだけれど。
 ひとまずTシャツと細身のパンツに着替えた僕は、そのままキッチンに立った。コーヒーメーカーのスイッチを入れ、少しだけ悩んで、2人分の水を用意する。僕がペーパーフィルターを用意している間に、男はいつの間にか後ろの戸棚から電動ミルを取り出し、ガガガガガッという嫌な音を響かせながら豆を挽きはじめた。自分が順番を間違えたことに気付いたので、行き場をなくした2人分の水をひとまずカウンターに放置する。隣で不協和音を奏で続ける大石を横目に僕は自分用の食パンをオーブントースターに放り込んだ。
「なにか食べる? パンくらいならあるよ」
「あー、うーん、どうしよ。帰ったら主税の朝ごはんが待ってるんでやめときます」
「へえ。今日はあの子も君もオフなんだ?」
「あ、僕はね。僕は完全オフです、主税は午前だけ。っつってもメンバーの顔見たいから事務所行くし、スケジュール調整の打ち合わせだけしてくるつもりですけど」
「ふうん」
 ガガガガガガガガ、ガガ、ガッ。
 大石はミルを止めて、僕が用意したフィルターに粉を落としていく。その横顔からは何も読み取れない。平然としているその声がなぜか今日はいまいましかった。
することがなくなってしまったので、作業を続ける大石の背中を眺めながら食卓についた。食パンが焼けたらまた立たないといけないことぐらいわかっているのに、自分の老体が座りたいと悲鳴をあげている。

「ねえ吉良さん、いい加減ウチと手ェ組む気になってくれません?」
 粉を落とし終わった彼は、そのままフィルターを定位置にセットして、僕が入れた水を半分残して水槽に入れ、コーヒーメーカーのスイッチを押した。

「言ってるでしょ、組まないよ」
 頬杖をつきながら、彼が望まない答えを返す。

 僕も彼ももう飽き飽きしている話題だ。そっかー、ですよねえ、と間延びした声で適当に相槌を打ちつつ、大石は僕の向かいに座って同じように頬杖をついた。視線が合う。男はすこしだけ唇を突き出して間抜けな面をこちらに見せているし、僕は僕で食パンにマーマレードを塗るかジャムを塗るかを考えている。
「絶対話題になりますよ、ウチとKRAが組んだら。ユニットの評判高めたいとか思わないんですか吉良さん? って何回も言ってるんですけど」
「メリットよりデメリットのほうが大きいし、何より僕たちはお前たちが大嫌いだ。僕を殺したお前たちと仲良くしろって言うのかい? って何回も言わなかったかな」
「知ってますよ、それ聞いたの今日で47回目」
「ふうん、キリがいいじゃないか。ここらで諦めたらどうなの」
 ピーッ、ピーッ、ピーッ。オーブントースターが喚いたので、相変わらずぼんやりと宙を見つめている大石を残して席を立つ。こんがりきつね色の食パンを取り出し、やっぱり少し悩んでからイチゴジャムの瓶を取った。新品のジャム。蓋を開けてバターナイフで中身を掬い、食パンを赤く染め上げる。大石が、スン、と鼻を鳴らす。
「諦める・諦めないの話じゃないって、吉良さんも分かってるくせに」
「……AKR単体での話題作りはもう不可能だ。AKRの存在を絶対にするためには、メンバーの今までとは違う一面を引き出さなければいけない。つまり、ライバルと手を組む方法しかない。……って魂胆であってるかな」
 半分正解です、と大石は告げる。

「僕、KRAのこと心底嫌いなんです」
 もういいですかね、47回目ですし、こういうこと言ったって。

 軽やかに、けれどどこか冷めた口調に、ゆるやかな苛立ちが僕の頭に響く。とにかく僕は、ふうん、と喉を鳴らした。大石の向かいの椅子に戻ることは少しためらわれて、僕は大石の背中を眺めながら、キッチンにもたれかかって食パンを口に運ぶ。
「僕たちを潰そうと思ってKRA作ったのかと思ってたんですけど、そうでもないみたいですし。公式ライバルみたいな言い方されるの、正直ものすごく嫌なんですよね。認めたくないし、認めてないですもん。だから今のうちに潰せるなら潰しておきたくて、KRAとタッグ組んでそっちの仕事量減らして、うまいことAKRの波に巻き込んでしまおっかなーなんて思ってたんですけど、うーん、なんかねえ、今の吉良さんの言ってること反芻してたら嫌気差してきちゃいました」
「へえ、君でも考えなしに苛立つんだね。いいよ、最後まで聞いたげる」
「ありがとうございます」
 大石は、スン、と鼻を鳴らす。これがこの男の癖だった。鼻が詰まっているというわけではない、自分の頭の中を整理するために鳴らす音。言うなれば、キーボードのエンターキーを押すかのような。冷房を弱から強に変えるスイッチのような。そりゃあこいつの癖だって覚えるさ、なんてったって連続ログイン47日目。僕は食パンを咀嚼する。
「KRAがいないと僕らが成り立たないわけじゃない。あなたたちがいなくても僕らは僕らでやれますよ。だけど、ファンがそれを望まない。きっと次のアイドルグループが出てきたら、ファンはそちらに流れるでしょう。僕らはメンバーの入れ替えなんてするつもりないし絶対に出来ないけど、ずっと黄金時代のメンバーのまんまじゃファンは立ち止まってくれないだろうし、その意味さえ理解しないでしょうね。だから半分は吉良さんの答えで正解です、KRAと組むことでファンは幾分か流れずにすむし、新規も増える」
「まあそうだろうね。KRAはそこまで大々的に活動しているわけでもないし、だけど君たちの敵だということはそれとなく知れ渡っている。僕たちが組むことで話題にはなるだろう。アイドルに興味がない世代にも名前を知ってもらう機会が増える。でもそれはAKRのメリットであって、KRAのメリットにはならないよ。君もさんざん言ってくれたけど、僕たちは君たちを潰すように積極的な活動は行っていないもの」
「ねえ吉良さん、ずっと気になってんですよ、俺。それならどうして、あなたはKRAを作ったんですか」
 ……いまさら。と、低い声が聞こえた気がした。きっと気のせいではない。今回彼らが狙っているのは吉良上野介の首じゃあない、芸能界の首だ。芸能界への討ち入りだ。……いまさら。
「じゃあ、お前はどう思う? どうしてKRAがあると思う?」
 この男はきっとわかっている。だからこそ気になっている。その答えが頭に引っかかっていて、けれど今まで僕にそれを尋ねることはできなかったのだろう。自分の頭の中を僕に見せなければ、その答えは得られないからだ。打算的な男は、同時に策士であるからして、脳味噌をすっかりぽっかり取り出してしまえばそれが弱味になることを知っていた。
 大石は、スン、と鼻を鳴らして、ぐるりと首をこちらに向けた。
 吐き気を催すほどに完璧な笑顔を張り付けて。

「僕たちを穢すためですよね」

 白いページに一点の黒いインクを落とす。それだけで、白は白ではなくなってしまう。人々はそのページを一瞥したときに「シミがある」と眉を顰め、早々に次の真っ白なページへと遷るだろう。
 現代を生きる人々で、播州赤穂浪士のことを知る人は少ない。そして、仮名手本忠臣蔵を知る人がいても、赤穂事件を知る人はいよいよ少ない。
「白くないのに、白いと言い張るのはね、大石、みにくいアヒルの子だよ」
 それは紛れも無く、先の言葉への肯定だ。大石は笑みを深くする。
 僕の顔も知らなかったのに、彼らは僕を殺した。浅野と僕との間で何が起こったのかを推定でしか知らなかったのに、僕を恨み、僕を殺した。それを忠義と人は呼んだ。後世に伝えられた伝説の中、僕たちはいつだって悪者だった。
「一度ならず二度までも、二度ならず三度までも、君たちが僕たちを良いように扱うことが許されるはずないでしょう」
 最後の一欠けらを無理矢理口にねじこんだ。口の周りにイチゴジャムがべったりとついたが気にしない。もぐ、もぐ、もぐ、ゆっくりと咀嚼して、その塊を僕の中に押し込む。大石は何も言わずに朝食の結末をただただ見ていた。
 ごくん。
「吉良さん、でもさあ、単に一点を穢すだけで満足ってわけじゃないんでしょ」
「そりゃあね、シミを広げたい気持ちはあるさ。……ん、」
 僕は男に見せつけるように舌を遣いながらゆっくりと口周りのイチゴジャムを舐めとった。男は少しだけ眉を寄せたが、僕のその行動から視線を外そうとはしない。吉良上野介には相応しくない行動を、男はなんとも憐れむような眼で最後まで見届けた。
「ねえ吉良さん」
「なんだい」
 大石は、ふう、と息をひとつついて真面目な顔を作り、椅子の背もたれに肘をついた。
「KRAじゃなくて、吉良さんと、僕らが組むのってどうですか」
「……僕、ソロで?」
 コーヒーメーカーはいつの間にか音を立てるのをやめている。男が淹れたのは1人分。僕はそれをお気に入りのマグカップに注ぎ、ちょっと悩んで、ミルクは入れないことにした。
「そう。AKR四十七feat.吉良」
 そうか。表情には出さない程度に臍を噛む。僕はコーヒーを口に含むことなく、ひとまずマグカップを置いた。目の前にぶら下がっているシナリオに乗るタイミングを見計らう。
「僕、君たちのこと、嫌いだって言ったよね?」
「ええまあ。でもそれはお互い様でしょ。あなたは自分たちが良いように扱われるのが嫌だと言った、だけど僕たちをもっと汚したいとも言った。それならあなた単体と手を組むのが一番良い案だと思いませんか」
「どこが? 根本的な問題は片付いてないだろう」
AKRはKRAを利用するんじゃなくて、あなただけを利用する。あなたはAKRを利用すればいい」
 するりと大石は席を立った。そのまま僕の目の前までやってくる。僕には少し届かない身長。だけど僕と同等の気迫。スン、と男は鼻を鳴らす。
「リーダーがいなくなったKRAは蛻の殻だ。どうせあなたは彼らをアイドル界に引き摺り入れたことに後悔しているんでしょう、ならそのまま自然消滅させてしまえばいい。ウチに居座ってしまえばいい。老獪のあなたには容易でしょう」
「僕が居座れば、AKRの活動に必ず支障が出るよ。ユニットの中でまた派閥が生まれるかもしれない、ただのハイリスクローリターン。どうして君はそこまで僕に執着するのかな」
「知りませんよ、知らないままで47日間も過ごしちゃったし、俺はいまさら身を引きたくない」
「引くなら今だよ」
「引きません」
 今までの真面目なツラをずるりと剥いで、大石は薄ら笑いを浮かべた。そうして僕の喉元に、右手を添える。僕は冷めた目で男を見下ろして、彼のネクタイの結び目の下を握る。意趣返し。殺すなら、殺される。

「Win-Winです、吉良さん。ウチのグループが壊れるなら、それも仕方のないことだ」
「……仕方のないこと、ね」


 与えられた台詞は、「恋の仇討ちなら大歓迎、きらきら輝くシャイニングスター」。今はこの台詞を口にするだけで鳥肌が立ってしまうけれど、なぜだろう、こんな僕も悪くはないと思えてしまうのがどうにも癪だ。淹れたどす黒いコーヒーは舌が痺れるほど苦く、それを一気飲みしようとして思わず咳き込む僕の横で、悪戯男は「それが2人分の黒さですよ、吉良さん!」なんて言いながら、ゲラゲラ笑っていた。

 

 

大石内蔵助吉良上野介の食えない話 2013